瞼の裏側にはいつも笑顔の神様がいる

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もうひとつの幻想 ③

3、帰るべき場所

夜の帳が下りた河川敷で、俺は顔を地面に打ちつけ血を吐きながら、不思議な行動を取る知人の男性を見ていた。

彼は水辺を独り言を呟きながら、とぼとぼと歩いていた。

まるで、隣には誰かが一緒に歩いているかのようだった。

何を話しているのか、全く聞き取る事は出来なかったが、確実に彼は何かを言っていた。

転倒して立ち上がった俺は、そのまま立ち尽くすように彼を見ていた。

不思議と話しかけようと言う考えは、俺には無かった。

ただ、黙って彼の行動を見ていた。


やがて彼は歩くのをやめ、何かを問いかける仕草をした。

そして奇跡は起きた。

彼がこちら側に振り向いた瞬間、彼の足元から地面が急に明るくなって来たのだ。

それは、薄紫色の花の開花だった。

まるでポンポンと音を立てるが如く、小さな花が一斉に開花したのだ。

俺はビックリして、その場に座り込んでしまった。

俺はただ、その小さな花たちを眺めていた。

いつの間にか、俺の得意客の男性は姿を消していた。

俺は再び走り出した。

白々と明けてゆく春の空を眺めながら。

「今俺に出来る事は、遠くからでも彼女の幸せを祈るだけだ。それだけでいい、それだけで・・・。」

その時俺は再び、自分の足で走り出す事を決めた。


奇跡の夜から4ヶ月が経とうとしていた。

その電話は突然かかってきた。

もうすぐ仕事が終る午後4時ごろ、俺の電話を鳴らしたのは彼女だった。

それは、今にも泣き出しそうな声だった。

「今、来れないかな、市役所なんだけど・・・。」

「何かあったのか?すぐにか?」

「うん、来てくれたら話す。来れないのなら・・・。」

そう彼女が言うか言わないかのうちに、俺はこう答えて受話器を置いた。

「すぐ行く。待ってろ。」


俺は代車用の軽自動車に乗り、市役所に向かった。

途中かなりの混雑に見舞われた。

それは、その夜川で行われるはずの花火大会の影響だった。

普段なら30分ほどで着く筈の市役所に、その日は1時間がかかった。

彼女は市役所の駐車場で、真っ赤に目を腫らせて立っていた。

彼女は俺の軽自動車に乗ると、突然に泣き崩れた。

そして顔をあげて、今度は俺の目を見ながらこう言った。

「さっき、赤ちゃん・・・おろしたの。」


俺は彼女を守れなかった。

酷い言葉を発して、彼女の前から去ってしまった。

愛する女を、たった一人の女を、守ってやれなかった。

俺はその夜、彼女の話を聞いた。

否定も肯定もせず、ただただ黙って聞いた。

彼女は何も隠すこともせず、何も飾る事もせず、躊躇もなく、俺の目を見て話してくれた。


妊娠に気付いたのは2週間前。

相手の男には悩む事無く中絶を頼まれた。

費用は相手の男が全額出すと言っていた。

恐らく彼は、たったそれだけの事で責任を果たしたと思っていたと言う。

妊娠を告げた後、相手の男とは一度も会わなかったと言う。

それまでは、少しの時間をも惜しんで会っていたというのに。

そして今日、中絶処置の前に男に電話をかけたという。

男には行けないと言われた。

そして、麻酔などがようやく切れた午後、もう一度電話をかけた。

その時の回答は、信じられないものだった。

「すまんな、今日は息子と遊ぶ約束があるんだ。」


「私がおろしたのも、あの人の子供なのにね・・・」

彼女はようやく泣き顔から解放されていた。

「疲れただろう?何か食おう。」

「うん、ごめんね、こんな時ばかり・・・」

「いや、良く電話をかけてきてくれた。こっちこそ・・・すまんな、守ってやれずに。」

「何であなたが誤るの?悪いのは私なのに、なんで・・・。」

「この前別れた時、酷い事を言ってしまった。」

「いえ、あなたの言ったとおり、私しっぺ返し貰っちゃった。」

「本当に、よく電話をかけてくれたな、俺なんかに・・・」

「あなたの顔しか、浮かばなかったんだ。」

彼女のそんな言葉を聞いた時、俺はこう言わずにはいれなかった。

「だったら、俺が君の中でそんな存在だと言うのなら・・・ちゃんと付き合ってくれ。」

「え・・・だって・・・私今違う男性の子供をおろしたのよ。」

「そんな傷は時間が経てば治る。重要なのは、今君が生きてここに、俺の目の前にいるって事だ。それだけでい
いんだ、それだけで・・・。」

彼女は「ありがとう」と言って、俺の胸の中で涙を流した。

俺は彼女と、一晩中一緒にいてやった。


翌日の午後、俺の電話が鳴った。

受話器からは懐かしい声が聞こえた。

奇跡の夜に河川敷で会った、俺の得意客からだった。

「すまないが、また車を買いたいんだ。」

「あ、そうですか!今度はどのようなお車をお探しですか?」

「いや、今度は前のような高級車は買えない。何か安い軽自動車が欲しいんだ。すまないね。」

「いえいえ、かしこまりました。早速探してみますよ。」

「うん、頼むよ。」

俺は、奇跡の夜のことを聞こうと思ったが、聞くのをやめた。

きっと彼も、あの夜に何かがあったんだ。

何かが変わったんだ。

俺がそう思う理由は、たった今かかってきた電話の声で、何となく・・・

彼が幸せそうに思えたから。


俺は、ふとこんな言葉を思い出した。

世の中の風景のうちで一番美しい風景は、

それは全てのものが元に戻る風景

(ハ・ドッキュ 風景)

もうひとつの幻想 ②


2、奇跡の夜

彼女の目は俺に向けられる事も無く、じっと遠くの方の一点を見つめているようだった。

その表情からも、俺はこれから話される事の予想が付いた。

そして、俺のその予想は当たる事になる。

「私は好きな人がいるの。今その方とお付き合いしているの。」

しかし、その後の話は俺の予想を超えるものだった。


彼女が勤務している病院で、彼女はその男性と出合った。

男性は病院の透析室の機器を操作したり、透析液を作ったりする「テクニシャン」と呼ばれる立場だった。

彼女はその男性の勤務する透析室に配属になった。

彼女の透析室での勤務は、非常に評価が高かった。

明るく真っ直ぐな性格な上、コンビニのバイトで培った要領のよさや仕事の早さが、彼女の評価を上げた要因

だったのだろう。

一方専門技術者であった男性は、話上手な人気者だった。

明るく仕事熱心な新人看護師と、男性としての魅力を兼ね備えた技術者が、恋に落ちるのにはそれほど時間はか

からなかった。

しかし大きな問題点は、その男性には既に妻子がいた事だった。


彼女とその男性の恋は燃え上がった。

男性が時間を作る事が出来る日は、殆んど側には彼女の姿があった。

男性にはそれなりの収入が確保されていた。

いくつかの彼女へのプレゼントも用意されていたが、彼女はそれを断っていた。

その男性の自分への想いを、形として残したくない。

それが彼女の気持ちだった。

いつかは終ってしまう恋だという事は、彼女の中では理解しているようだった。


「私は今の生活が好きなの。まだこの生活を続けたいの・・・。」

彼女は俺にそう言った。

「いつか終ってしまうものを、何故そんなに大事にするんだ。」

俺は自分のタイミングの悪さを嘆いていた。

彼女が仕事に就いてバイトを辞めたとき、すぐに言えば良かったのかもしれない。

俺はその時、フリーターとしての自分に自信が無かったのだろう。

俺が人としての自信を得た頃には、彼女は違う男性と過ちを犯してしまっていた。

「私、今の自分も必要だったと思える時が来ると思うの。だから・・・もうしばらく・・・。」

彼女の目は、まだ真っ直ぐに遠くを見つめていた。

彼女の目線の先には、誰が存在するか俺にはわかっていた。


「君は・・・人間を舐めている。いつかキツイしっぺ返しが来るだろう。」

俺は嫌な男だった。

愛する女性の過ちを正す事も出来ずに、悪態をついて去っていくのだ。

「俺は無能者だ。最低だ。」

俺は高校時代、その川の土手を走るのが日課だった。

土手には500mずつの標識が立てられており、どのくらい走ったかがわかる様になっていた。

俺は久しぶりにそこに訪れた。


「こんな体、ぶっ壊れてしまえ!愛する女も救えないような男は、生きていても仕方が無い。」

俺はそんな事を呟きながら、その川の土手をがむしゃらに走っていた。

午前0時を越える頃、春の生暖かい風が吹いていた。

がむしゃらに走る俺は、土手道の段差に足を取られ転倒した。

俺はしこたま地面に顔を打ちつけ、口からは鮮血が流れた。

「ちょうどいい、もっと壊れろ」

俺はもつれる足で再び立ち上がろうとしたその時、遠くで人の影が見えた。

その人は、よれよれのスーツ姿に見えた。

もっと目を凝らして見てみると、その人は先日事故を起こした俺の得意客だったのだ。

彼もまた、こんな時間にたった一人で水辺を歩いていたのだ。

俺は口から鮮血を吐きながら、しばらく彼の事を見ていたのだった。

つづく

もうひとつの幻想 ①


1、再会

俺が彼女と知り合ったのは、もうかれこれ5年になる。

俺がハタチの頃、コンビニでバイトをしていた時の同僚だった。

彼女は看護学校に通っていて、俺はその店のフリーターだった。

俺は深夜の時間帯を勤務し、彼女は早朝6時にやってきて朝の2時間を通学前に勤務していた。

そして、俺も彼女も朝の8時に仕事を上がった。

彼女はそのまま通学し、俺は家に帰って眠った。


俺は彼女が気になっていた。

明るく、弱音を吐かない頑張り屋だったし、大きな夢を持っていた。

しかし、俺の方はしがないフリーターだった。

同じ年であるのに、俺自身が情けなく思えていた。

彼女の学校が休みの日などは、俺はバイトが終った後彼女を誘った。

彼女は俺なんかにも気軽に着いて来てくれ、俺は眠い目をこすりながら彼女を車に乗せて食事などをした。


ある日、俺も彼女もバイトが無かった日があった。

俺は彼女に

「たまには夜に会わないか?」

と言って誘ってみた。

彼女は快く承諾してくれた。

俺は彼女を車に乗せ、横浜にドライブに出かけた。

横浜の海を眺めながら、俺は彼女に告白をした。

「俺と付き合ってくれないか?。」

彼女は俺の目を見ずに、海を見ながらこう答えた。

「ごめんなさい、今は学校とバイトで手一杯なんだ・・・。」

おれはあっけなく振られてしまった。

そのまま、彼女との仲は平行線を辿り、1年後、彼女は看護学校を卒業して仕事に就いた。

俺は相変わらず、同じ店でバイトをしていた。


そして5年の月日が流れた。

その間、俺は彼女とは一度も会う事は、当然無かった。

俺は叔父貴と一緒に事業を立ち上げた。

自動車関連の仕事だった。

仕事はある程度順調に行き、しがないフリーターだった俺も、自分の人生に自信を持ち始めた頃だった。


そんなある日、俺の得意客が事故を起こした。

俺が売った高級乗用車は大破し、その客は病院へ担ぎ込まれた。

得意客である事から、俺は彼が入院した病院へお見舞いに行った。

そして、そこで働く彼女と再会したのだった。

得意客が入っている病室に、患部のガーゼを取替えにやってきた彼女は、俺の顔を見て驚いていた。

そういう俺も、まさかと言った表情だったと思う。

「ここで働いていたのか・・・久しぶりだな。」

「うん、久しぶり、元気だった?」

俺は見舞いの帰り際、ナースステーションに寄って、彼女に名刺を渡してきた。

もう、あの頃のようなフリーターではないと言う自信の表れだったのかもしれない。

「今、こういう仕事をしているんだ。今度電話をくれないか?。」

「そう、わかった、電話するね。」

そう言って別れた彼女は、あの頃よりも輝いて見えた。


大して期待はせずに渡した名刺だったが、2日後の夜本当に彼女からの電話があった。

「こんばんは。この前はビックリしちゃった。」

「俺もさ、まさか君があの病院で働いているなんてな。」

懐かしい笑い声は、俺の気持ちを再び点火させるには十分だった。

俺はあの頃のように、彼女を食事に誘ったのだ。

彼女は快く俺の誘いを受けてくれた。

俺と彼女は再び、時々会って話をする仲になった。

5年まえのアルバイト時代の思い出話や、その後のお互いの事。

そんな会話の中で、俺は再び彼女に傾斜していった。

そして再会から2ヵ月後、俺は意を決して彼女に言ったのだ。

「俺はもうあの頃とは違う。君もそうだ。改めて言うよ、俺と付き合わないか?」

しかし彼女は、うつむきながら首を横に振ったのだ。

彼女は「ごめんなさい」と言った後、こんな話を俺にしてきたのだ。

つづく

春の幻想③

3、幻想

女性は私に声をかけてきた。

「こんばんは。」

私は驚いた表情を取り繕いながら、挨拶を交わすことになった。

「こんばんは。」

その女性は、笑顔で私に話しかけてくれた。

「何をされているの?。」

当然、死のうと思って来たとは言えるはずもなかった。

「ちょっと夜風に当たりに・・・あなたは?。」

「私もです。今夜は暖かくて気持ちがいいわ。」

「こんな時間にお一人で・・・怖くはないですか?。」

「ええ、私この近所ですの。」

私たちは、少し歩きながら話す事にした。

他愛のない会話の中で、私はこの人にもう少し話してみたくなった。

「私は全てを失ってしまったんです・・・。」

「そんな事はないわ、あなたはまだ生きていらっしゃる。」

「いえ、そうなんです。仕事も、信じていた恋人すら・・・。」

「あなたは強い人よ、私にはわかります。」

「今逢ったばかりのあなたに、何がわかると?。」

「わかりますわ、あなたの全てが。」

その人の目は、私の全てを見透かしてしまっているようだった。

美しい人だった。

私たちは水辺を歩いていた。

ふいにその人はこんな事を言い出した。

「奇跡を信じる事はできますか?。」

「奇跡なんて・・・例えばどのような奇跡ですか?。」

「一瞬であなたを幸せな気持ちにする奇跡です。」

「そんな事は・・・ありえない。」

その人は優しく笑いながら、私を見ていた。

「幸せって、意外に近くにあるものですわ。」

その人がそう言うと、急に足元が明るくなったような気がした。

私は目を疑った。

さっきまでつぼみだったレンゲが、一斉に開花しだしたのだ。

まるで、薄紫色のじゅうたんの上にいるようだった。

「あなたならできるわ、だってあなたは強くて優しい人。」

私は一面に咲き誇るレンゲを目の当たりにしながら訊いた。

「君は・・・誰なんだ?」

「私は、この川の一部になった者。」

「まさか・・・ミント・・・」

振り返るとあの人は消えていた。

やがて不思議な夜は白々と明けてきた。

あの人が言った言葉を、私は頭の中で何度も繰り返していた。

「幸せって、意外に近くにあるもの・・・」

これ以上失うものがなくなった以上、幸せなんてどこにでもあるのではないか?。

私は初めて味わった挫折を、乗り越える事が出来るような気がした。

そして私は、生きる事を選んだ。

おわり

春の幻想②

2、猫

3年前、私はこの河川敷に猫を埋めた。

その猫は、私と半年間一緒に暮らした。

私はある雨の晩、彼女と出会った。

私の住むマンションと隣の家の間で、白い小さな命が鳴いていた。

仔猫だった彼女はお腹が空いていたのか、私が与えた餌を涙を流しながら食べた。

後でわかった事だが、猫は感情によって涙は流さない。

その時流していた涙は、空腹を満たして嬉しかったわけではなかった。

彼女の身体は、その時から病に犯されていたのだろう。


私は彼女を“ミント”と名づけた。

私はミントを風呂に入れ、一緒に暮らす事にした。

仕事に疲れた私は、ミントの愛らしい仕草に癒された。

ミントとの生活も半年が過ぎ、ミントは美しく成長した。

ところが、次第にミントは痩せていき、やがて餌を食べなくなった。

私は仕事から帰った後、ミントを近所の動物病院に連れて行った。

獣医の診断は、猫白血病だった。

ミントは次第に痩せていき、ある日曜日の夕方、私の腕の中で息を引き取った。

私はミントを抱き抱えながら、この川の河川敷にやって来た。

私は穴を掘ってミントを埋めた。

ミントは川の一部になった。


川は静かに流れてる。

失意のまま、私はここへやって来てしまった。

思えば、ミントを埋めたとき以来だ。

そう言えば、あの時も季節は春だった。

私はふと、上流に目をやった。

私のいる場所から10メートルほど上流から、白いビニール袋のようなゴミが流れてきた。

人影など全くない、真夜中の河川敷。

先ほど川上に飛んでいった水鳥が、今度は川下に飛んでいった。


春とはいえ、まだ肌寒い空気だったはずが、少し生暖かい風が吹いてきたような気がした。

そして、さっき見えていた小さな白いゴミは、だんだん大きく見えるようになってきた。

おもいのほか、大きいものだったのであろうか?。

そして、そのゴミは水の中を流れているものだとばかり思っていたのだが、それは私の見間違いだった。

ゴミと思われる者は実は陸にいて、次第に私に近づいてくる。

やがてその姿がはっきり確認できるほどになった。

それはゴミなどではなく、白いワンピースを着た若い女性だった。

私は驚きを隠せないでいた。

つづく

春の幻想①

1、川に来た訳

何となく生暖かい風が吹いていた。

この川の土手には、レンゲが一面に生えていて、今にも咲き出しそうにつぼみを膨らませていた。

時間はもうすぐ24時になろうとしている。

月も出てない真っ暗なはずの夜だが、何となく薄明るい気がする夜。

全てを失ってしまったと、そう思い込んでいた私はとうとう、ここに足を運んでしまった。

「このままこの川に入ってしまおう」

水鳥が一羽、川上に向かって鳴きながら飛んでいったのが見えた。


私はウェブコンサルタントの会社に所属していた。

企業のウェブサイトのデザインを考案し、より効率的な広告効果や経営戦略を企画すると言った仕事がメインだった。

私の会社での功績は高いものだった。

私の考案した企画はほぼ100%の確立で上手く行き、クライアントからの信頼は元より社内での評価もかなりのものだった。

私の企画は全て私の頭の中に入っていた。

他の社員は、企画する業種によってマニュアルを作り、それをデータベース化して保存していた。

私は各クライアント毎に全てオリジナルの企画を考案し、同業種でも差別化を図った。

担当した全てのクライアントの細かい要望なども、全て私の頭に入っていた。

それは、同僚社員にも決して漏らす事はなかった。

私が誠心誠意クライアントと付き合った結果が、そういったデータとして残っていると言う事が私には嬉しかったし、例え同僚や上司にだってそれを提供する気にはなれなかった。


ある日の夕方。

帰宅を急ぐ私のクルマの前に、一人の子供が飛び出した。

必死にステアリングを切り子供を助ける事はできたが、私のクルマは近くを走る首都高速道路の渋滞情報などを知らせるインフォメーションの電光掲示板を倒すほどの事故を起こす事になった。

大破した車の中で、私は真っ赤になった自分の身体で辺りを見回した。

私が命を救ったはずの子供の姿は見えなかった。

私はそのまま、救急車で運ばれた。

私の顔には大きな傷が残った。

そして手元には、損害賠償額が提示された請求書があった。

私が倒した電光掲示板は8000万円だった。

その額は、私が加入していた自動車保険の対物補償額である1000万円を大きく上回っていた。

私は会社に向かい、退職金や賞与の前借と、足りない分の借金を申し入れた。

しかし、会社はそれらを受け入れる代償に、私の頭に入っているクライアントの情報とウェブデザインやその他の戦略プランの提示を求めてきた。

仕方なく、私は会社に従った。

しかしその直後、会社は私に子会社への左遷の辞令を突きつけたのだ。

それまで付き合っていた女性は、その後私の元を離れた。

私は見ず知らずの子供を助ける為に、仕事も車も恋人も全てを失ってしまった。


時は春。

ピンと張り詰めたような空気が、やがて暖かい風に変わってくる季節。

今にも咲き出しそうなレンゲのつぼみ。

緩やかに流れる水面を、少しだけ暖かくなった川風が走り抜けてゆく。

全てを失ってしまった私は、この川の河川敷へやってきた。

つづく