瞼の裏側にはいつも笑顔の神様がいる

9月, 2005 のアーカイブ

一頭の競走馬から貰った物・後編

私の大好きな競走馬、ライスシャワーには「勝つ事が望まれない馬」というレッテルが貼られてしまいました。
大衆が選んだヒーローは、メジロマックイーンでありミホノブルボンだったのです。
ライスは、この2頭の大記録達成の邪魔をしただけでなく、事もあろうにライスと死闘を繰り広げたブルボンは、そのレースがきっかけで故障し、引退を余儀なくされてしまったのです。
ライスはいつしか「関東の黒い刺客」とまで呼ばれるようになりました。
しかし、ひねくれ者の私は、そんなライスがたまらなく好きになって行ったのです。
 
マックとの天皇賞を勝利で終えたライスは、夏の休養に入ります。
夏の間ゆっくり身体を休め、秋のG1戦線に備えるのです。
ところが、夏の終わりになっても、ライスには春の気合が戻りません。
ライスは春の天皇賞で、マックを打ち破る事にすべてのエネルギーを消費し、燃え尽きてしまったかのようでした。それだけ、春の天皇賞でマックに勝つというのは偉業だったのです。
当のマックはというと、天皇賞の後の宝塚記念を涼しい顔で圧勝しています。
マックにとって、春の天皇賞の敗北は、彼のレースキャリアの中の単なる一敗に過ぎなかったのです。
マックに単なる一敗を与えるために、ライスは燃え尽きるほどのエテルギーを費やしたという事は、ある意味でライスはマックに敗北していたのかもしれません。
 
ライスは本調子が戻らないいまま、秋のG1戦線に挑まなくてはならなくなりました。
初戦、オールカマー(GⅢ2200m)は格下の相手に敗戦。3着に敗れます。
その後、天皇賞・秋(GⅠ2000m)6着、ジャパンカップ(GⅠ2400m)14着、有馬記念(GⅠ2500m)8着と凡走を繰り返し、ついにライスは競走馬として一番強い時期と言われている5歳の秋を、一勝も出来ずに終えるのです。
 
翌年、平成6年。ライスは京都記念(GⅡ2200m)も5着に敗れ、2度目の春の天皇賞の前哨戦、日経賞に挑みます。
そのレースは5歳になったばかりの強豪、ステージチャンプも出走し第三コーナーから早くも先頭に立ったライスを差し切り優勝。ライスは強豪チャンプの2着という事で、復活の兆しが見えたと思われたのです。
ところが、本番の天皇賞を前に、ライスは不幸に見舞われるのです。
調教中、急に足を地面に着けなくなるほどの痛がり方を見せたのです。
診察結果は、骨折でした。この時点でライスの2年連続の天皇賞制覇の夢は、潰えました。
 
骨折はかなり深刻で、ライスの現役生活を脅かすほどのものでした。
ところが、ライスは平均的な競走馬よりも。小柄な馬だったのです。
軽い馬体重のお陰で回復も早く、その年の復帰は無理であろうと思われていたのですが、なんとか年内に復帰できる目途が立ったのです。
目標は暮れの中山競馬場、有馬記念です。
そのレースには、その年日本中を沸かせた最強4歳馬ナリタブライアンと、外国産の最強4歳牝馬ヒシアマゾンが出走するのです。
病み上がりのライスに勝ち目はありません。ライスにとっては病み上がりの初戦、勝つ事よりもレース勘を取り戻させるための出走だったのです。たまたまそこに、最強4歳馬2頭がいただけだったのです。
レースは予想どうり最後の直線で、最強馬2頭のマッチレースとなります。
ところが馬群から抜け出す2頭を、必死で追うもう一頭がいました。
ライスです。ライスはこのレースに勝つために、必死で2頭を追ったのです。
陣営は勝つつもりなど無かったのに、ライスの中には勝つための闘志が甦っていたのです。
結局、最強馬2頭には追いつけずに、ライスの有馬記念は3着に終わりました。
しかし、ライスに勝つための闘志が帰って来たことは、陣営にとって大きな出来事だったのです。
 
翌年、平成7年。ライスの馬齢は数え7歳になりました。
もう、競走馬のピークを越え、ベテランの域に達したライスの目標は、恐らく最後になるであろう春の天皇賞です。
この天皇賞こそ、前編で私が書いた私たちのレースになるのです。
その前哨戦、昨年と同じローテーションで京都記念、日経賞と2つのレースに出走しますが、京都記念6着、日経賞6着と凡走します。
いよいよ最後の天皇賞を前に、ライス陣営に一つの大きなニュースが飛び込んできます。
あの最強馬、ブライアンが故障し天皇賞を回避するというのです。
陣営に、ライスに最後のGⅠを勝たせてあげられるかもしれないと言う、希望が生まれたのです。
 
そして”私たちのレース”平成7年の春の天皇賞の幕が上がります。
前編で書いたように、ライスはこのレースをチャンプとの激しいデットヒートの末に、勝利するのです。
ライスにとってこのレースは、どんな意味合いがあったのでしょうか?。
スターホース不在のこのレースで、ライスは初めて市民権を得たのです。
ブルボンを破壊し、マックの夢を打ち砕いた”関東の黒い刺客”は、初めて競馬ファンに受け入れられたのです。
その結果は、ファン投票で出走馬が決められる次のレース、宝塚記念の投票結果に表われます。
ライスはファン投票1位で、宝塚記念出走を決めます。
いや、決めてしまうのです。運命のレースの出走を・・・。
 
天皇賞でチャンプとの死闘を繰り広げ、勝利したライスは宝塚記念のための調教を受けます。
競走馬のピークを越えてしまったライスにとって、この調教は苦しいものだったはずです。
それでもライスは、調教を拒んだりはしない性格だったのです。
恐らく肉体的にも、精神的にも限界をはるかに超えていたのではないかと思います。
それでもライスは”運命のレース”宝塚記念に出走してしまうのです。
 
平成7年6月4日、第36回宝塚記念(GⅠ2200m)。
事故は11万の大観衆の目の前、最後の第三コーナーから第四コーナーの中間地点で起こりました。
後方5番手あたりを追走していたライスは、突然もんどり打つように転倒したのです。
ライスは苦痛にもだえながら立とうとしますが、再びその場に崩れ落ちました。
左第一指関節脱臼・・・。
ライスの左前足の骨は、肉と皮を突き破り外に露出していたそうです。
もう2度と立ち上がることの出来ないという診断結果でした。
予後不良・・・。
ライスは11万の観衆の目の前で、安楽死処分がくだされました。
 
その後、私は一度も馬券を購入していません。全てのギャンブルを止めました。
ライスが私にくれた物はなんだったのでしょうか。
結婚のきっかけをくれた馬。ギャンブルを止めさせてくれた馬。
それよりも、私はライスシャワーという馬が好きでした。
好きで、好きで、好きで、好きで、好きで、好きで、好きで、好きで・・・・・。
大好きな彼の走る姿を、もう2度と見る事は出来ない悲しさ。
彼の子供が走るのを、楽しみにしていた希望を打ち砕かれた悔しさ。
そんな、どうしようもない悲しさを乗り越える勇気を、ライスは私に残してくれたのかもしれません。
 
家畜にお墓はありません
 
人間のためにこの世に生まれ
 
人間のために生き
 
人間のためにしんでいく
 
死ねば肉になります
 
だから家畜には
 
お墓はありません
 
 
ライス。あなたの立場は家畜だけど、あなたにはお墓が与えられたよ。
 
あなたはどんなに嫌でも、調教や出走を拒んだりしなかったね。
 
だから、こんなに早く逝ってしまったんだね。
 
もう、キツイ調教もレースもする事はないよ。
 
今は天国のターフを思いっきり走っているのかい?。
 
皆、あなたの事をいろいろ言ったりしたけど、
 
最後は皆、あなたの事を応援してくれたんだよ。
 
良かったね、本当に良かったね、ライス。
 
私はあれから結婚したよ。子供も生まれたよ。
 
あなたのいないこっちの世界で、今も頑張って生きているよ。
 
時々あなたの走る姿を、思い出しながら・・・。
 
                     一頭の競走馬から貰った物・・・完
 
 
 
 
 
 

一頭の競走馬から貰った物・中篇

平成元年、3月5日。後にライスシャワーと呼ばれる牡馬は、父リアルシャダイ、母ライラックポイントの間に生まれました。
ライスはスターホースと呼ばれるまでは、かなり険しい道のりがありました。
その理由は、数え4歳の前半まであまりパッとしない成績だった事ともう一つ、彼のライバルとされていた競走馬たちが、あまりにも凄い馬たちだったからです。
 
平成4年、数え4歳になったライスは、最初のライバル”ミホノブルボン”に出会うのです。
ブルボンは無敗のままクラシック三冠レースの一つ、皐月賞を圧勝します。
その時のライスの成績は、惨敗の8着。ブルボンのライバルの数にはとても入れてもらえないような内容だったのです。
ところが、次のクラッシックレースの日本ダービーでは、ブルボンを脅かす存在になるのです。
血統的には長距離馬(ステイヤー)のライスです。皐月賞よりも400m長いダービー(2400m)は、ライスにとって有利な条件となったようです。
それでも、無敗の最強馬ミホノブルボンの4馬身差の2着という結果でした。
 
夏にゆっくりと過ごしたライスは、最後の三冠レース、菊花賞に挑みます。
そのトライアルレース京都新聞杯で、またもライバル、ブルボンとの対決となります。
その結果は、1着ミホノブルボン2着ライスシャワー1馬身半差。
またも2着に敗れたライスでしたが、皐月賞惨敗、ダービー4馬身差、京都新聞杯1馬身半差と、明らかにその差を縮めてきています。
そして本番の菊花賞。ファンの誰もが無敗の2冠馬、ミホノブルボンに注目します。
実際私でさえ、ブルボンの勝利を信じていたし、応援もしていました。
ポッと出の幸運でダービー2着した馬が、無敗のブルボンに勝つはずが無い。
私自身がそう思っていたのです。ほかのファンが思わないはずがありません。
菊花賞はクラシック三冠を達成する、ミホノブルボンのためのレースという位置づけのようでした。
 
しかし、ライスシャワーはやってしまったのです。
3000mの距離は、ステイヤーであるライスのほうが有利である事、先行逃げ切りのブルボンの他に、大逃げを打つ馬がいた事等、いくつかの幸運が重なった事もありましたが、ライスは菊花賞レコードタイムで見事ミホノブルボンを差しきったのです。
しかも、ブルボンはハードなレース内容がたたり、足に重大な故障を負います。そして、引退を余儀なくされてしまったのです。
それにより、世間でのライスの評判は最悪となりました。
「ブルボンの三冠を奪った馬」「ブルボンをつぶした馬」
不吉な黒鹿毛の馬体も、そんな評価に追い討をかけてしまったようです。
ひねくれ者の私はこの頃から、ライスシャワーという馬が気になりはじめます。
 
翌年、古馬となったライスの目標は、春の天皇賞です。
このレースでライスのライバルとして立ちはだかったのは、春の天皇賞2連勝中の最強ステイヤー、メジロマックイーンです。
マックは鞍上の武豊騎手と共に、この天皇賞を勝てば前人未到の春の天皇賞3年連続勝利という大記録達成となります。
ファンの誰もがその記録達成を夢見ていたわけです。私以外は・・・。
 
またもや、ファンにそっぽを向かれたまま、ライスの春の天皇賞が行われます。
その時のライスの馬体は、ギリギリまで絞込み、血管は浮き出て黒鹿毛の毛艶はまぶしいほどだったといいます。7~8キロ落ちたかなと思われた馬体は、実は12キロも絞り込まれていたそうです。
ライスはいったいどんな調教をされたのでしょうか。
ライスシャワーという馬は、どんな調教も拒否をせず、全て受け入れたそうです。
その結果が、天皇賞での見事な馬体に表われました。
それでも、評論家やファンの話題の中心はマックでした。
平成5年の春の天皇賞は、やはりライスでは無く、マックのためのレースだったようです。
 
ところが、私のライスは私以外は誰も望まない事を、やってしまったのです。
逃げ馬メジロパーマーをマークしていたマックを、さらに後方からマークし、さいごの直線コースでごぼう抜きしてしまいます。
鞍上の的場騎手は、ゴール前では追わずに馬なりでの勝利。不可能といわれたマック粉砕を、いとも簡単にやってのけてしまった、正に圧勝劇だったわけです。
そして、このレースでライスは更にヒールとして、ファンからの認識を強くしてしまいます。
「ブルボンだけでなく、マックの記録もぶち壊しやがった。憎たらしいな、あの黒い馬。」
ところが、ひねくれ者の私の中では、世間の評判とは反比例し彼の存在はどんどんヒーローになって行くのです。私はこの天皇賞も、本当に嬉しかった。
しかし、この後もっと嬉しい思いを、ライスは私にくれることになるのです。
 
                              つづく・・・。
 
 

一頭の競走馬から貰った物・前編

ある牧場主の言葉
 
家畜にはお墓はありません
 
人間のためにこの世に生まれ
 
人間のために生き
 
人間のために死んでいく
 
死ねば肉になります
 
だから家畜には
 
お墓はありません

 

私の人生に大きな影響を与えた、一頭の競走馬がいました。
彼の名は、”ライスシャワー”といいました。
競馬をやらない人でも、一度くらいは彼の名を聞いた事があると思います。
彼の事を書かせてください。
 
平成7年、私は今のカミさんとまだ付き合っている頃でした。
私は、ウダツの上がらない生活をしていました。
狭く汚いアパートに暮らし、彼女を呼ぶ事もできませんでした。
その頃、私は競馬が好きで、良く中山競馬場や錦糸町のウィンズに出かけていました。
その頃は、騎手では、武豊騎手、競走馬では、オグリキャップ、メジロマックイーン、トウカイテイオー、ナリタブライアン等、スターホースが続出し競馬はとてもブームだったように思います。
その中で、私は一頭の競走馬に注目していました。
そう、ライスシャワーです。
 
平成7年、天皇賞(春)ウダツの上がらない私は、1大決心のもと心意気の一点勝負に出ます。
大好きなライスシャワーと、その年絶対ブレークすると信じていたステージチャンプの馬番連勝。
私はその馬券が来れば、引越しをして彼女を呼ぼうと思っていたのです。
彼女にその話をすると、怒られると思いきや大乗り気。それならば自分も乗っかろうと、2人で一点勝負となったのでした。(なんちゅう2人や!)
 
天皇賞(春)というレースは3200mで行われます。
全力疾走の馬にとって、これは人間でいうとフルマラソンの距離らしいです。
ライスシャワーは450キロそこそこの競走馬としては小さな馬でした。
人間の陸上競技でもそうですが、短距離走は筋肉隆々の大きな選手が強いですよね。
マラソン選手は皆小柄です。ライスシャワーは長距離が得意な馬、典型的なステイヤーでした。
 
レース当日、彼の身体は引き締まり黒鹿毛の馬体は鬼気迫るほどの毛艶で輝いていました。
きっと、飯塚調教師のハードな調教の賜物だったのでしょう。
いよいよレーススタート。真ん中から少し上位の高位置ににつけた彼は、最後の3コーナーを過ぎると早くもスパート。おいおい!早いよと思う私。
そして4コーナー途中で先頭にたってしまいました。終わったか?と思う私。
ところが直線に向かうライスは、脚力は衰えず後続を引き離す。
追ってくる馬は一頭。私が2番手に上げたステージチャンプ!。
直線では2頭のデットヒートとなる。早めにスパートをかけたライスに猛然と襲い掛かるチャンプ。
ゴール版前では、2頭の鼻先がピタリと合う。写真判定・・・。
私は、当たり馬券を握りしめ、それでもなんとかライスに勝たせてあげたいと念じる。
判定結果。勝った。ライスはチャンプを鼻差退け、2度目の天皇賞の楯を手にしたのです。
 
そして、はれて私は引越しをして、彼女を呼ぶ事が出来たのです。
私がいくらその馬券を購入したか、倍率はいくらだったのかは、ひかえさせていただきます。
その後、私は彼女と結婚し、現在に至っております。
正に、馬が合ったのですね。しかもその馬の名前が”ライスシャワー”。
めでたしめでたし・・・・?。
ところが、ハッピーエンドでは終わらないのです。それは・・・。
 
皆さんは、競走馬の立場ってご存知でしょうか?。
家畜・・・だそうです。
 
                               つづく・・・。

 

招き猫とゆかいな仲間①

今回のお話は、ちょっとHというか、そんなお話です。
読んでくださっている女性の皆さん。
「そんなの不潔だわ!」
とお思いの方、どうぞスルーしてやってください。
男性の方で共感出来るという方は、コメントお待ちいたしております。
 
私が某所のラブホテルで、盗聴波を発見した時のお話。
土曜日の夜、最終的に盗聴波であるという確認をしに行こうと、胸を躍らせて・・・いや失礼、仕事なので仕方なく出発しようとした時です。
私の車のヘッドライトが片方切れていたんですね。(天罰?)
 
私の友達に、深夜営業の自動車板金屋を経営している不思議な男がおりまして。
そやつの所でヘッドライトのバルブをちょろまかしてこようと思ったわけです。
人里はなれた田んぼの真ん中に、奴の工場はありました。
「わりっ、ヘッドのバルブ落ちてない?」
「なんなの、こんな時間に~。」
「こんな時間じゃないとおぬしいないじゃろ~。」
「そか・・・バルブその辺にあるから勝手に持ってって。忙しいから自分で付けろ。」
冷たい言い方をされた。
まあ、スタンドで買えば千いくらかするものを、ロハで拾えるんだからいいか。
「あーりがとね~」
前の自販機でコーヒーを買っておいて行く。
すると奴は手を止め、タバコに火を付ける。なんとなく私も付き合う。
「これから仕事?」
などと聞かれ、なんとなくラブホテルの調査である事を口を滑らせてしまう。
すると、忙しいはずの彼の目の色が、みるみる変わってしまったのです。
「ねえ、招き猫く~ん」
気持ち悪いのだ。
「俺この後時間あるからさぁ~」
忙しいのではなかったのか。
「一人じゃ寂しいでしょう、夜だし」
別に寂しくなんかは無い。仕事だし。
「何でも手伝うからさぁ」
段々テンションが上がってくる。
「友達じゃないか!」
結局そう来るか。
「しょうがねーな。1時間3000円ね。」
「金を取ろーとするか?バルブ返せ!。」
「わかったわかった。醜いからやめよう。」
というわけで、その日の調査は無料奉仕のアシスタントが付く事になった。
 
1時間程車を走らせ、現場に到着する。
全ての部屋が、満室になっている事を確認。
しかし、どうした事か行われているはずの行為は、全て終了してしまっているようでした。
有線放送と思しめき音楽だけが、私のレシーバーから流れてくる。
波を発見した時は全くの無音でしたが、音声を確認出来たので、残念(オイ!)ではあるが、その日の私の仕事は終わり。
ところが、納得が出来ない人、約1名。無料奉仕のアシスタント君である。
「俺は何のために着いて来たんだ。」
「まぁ、こんな事もある。」
「俺は何のために着いて来たんだ。」
「仕方なかろう。帰るぞ。」
「お前は虚しくないのか。」
「虚しくなど無い。帰る。」
「お前は男として納得できるのか!。」
「俺はこれが仕事なのだ。じゃ、どーすりゃいいんだ!。」
「これより近くのラブホテルの盗聴波を、全てチェックする!。見付けるまで帰んないからな!。」
「それってこれからやるの~?」
「それがお前の仕事じゃ~!。」
結局、ラブホ盗聴波を求めて一晩中走り回ったが、収穫はゼロ。
奴をなだめて帰宅する頃は、しらじらと夜が明けてくる頃となってしまいました。
こらっ!板金屋!こんな事で一晩中走り回るほうが、虚しいだろ!。
 
もう二度と無料奉仕のアシスタントは、まっぴらご免だと思う招き猫でした。
 

季節外れの怖い話

この前、カミさんの田舎でお墓参りをした時思い出したので、お話させていただきます。
すいませんねぇ、季節外れで・・・。
 
10代だった頃、私は霊感というものがありました。
今ではもう、すっかりそういった力は無いようですが・・・。
その頃のお話です。
 
私には、私の事を非常に愛してくれた叔母がおりました。
その叔母は膠原病を煩っていて、私が生まれて1年後に亡くなりました。
私は、その叔母に1年間愛されていたんですね。
叔母はまだ14歳だったそうです。名はよっちゃんといいました。
 
そんな事を聞かされていた私は、何か頂き物をしたり、初物の果物などを買ってくると
「よっちゃんにあげてから食おう。」
と、まずは仏壇に供えるという事が、習慣になっていました。
 
私が18歳の年だったと思います。その年の2月の事でした。
私の従姉妹の家の雛人形を、家が狭いと言う理由で、私の家に飾る事になったのです。
2月のはじめ頃、そういうわけで何故か男である私の部屋に、雛壇が飾られていました。
ところが、3月の2日。雛人形は、風に当てられ、良い陰干しになったという事で、撤収されてしまう事になったのです。まさに大人たちの勝手な都合。
「意味ねーじゃん。」
と、私は一人で思っていましたが、別に私が主張するほどの事でもありません。
 
その日の夜。正確には3日の0時ちょうど。私は何か胸騒ぎを覚え、目覚めました。
すると私の体は、目以外は動く事が制限されてしまっているようでした。
いわゆる金縛り・・・。
目だけがきょろきょろ動かせる状態でしたが、不思議と恐怖心はありませんでした。
どうしたものかと思っていると、寝ている私の上に、白い者がふわふわと飛んで来ました。
そして、私のまわりをくるくると回っていました。
「よっちゃん・・・。」
私は直感しました。
よっちゃんは、雛壇が私の部屋にあると知り、雛壇を見に来たのですが、雛壇は撤収されてしまっていたのです。
「雛人形はどこ?一緒に探して・・・。」
よっちゃんはそう言って私を起こしたような気がしました。
「ごめん。雛人形はここにはもう無いんだ・・・。」
私が心の中でそう呟くと、私の身体は自由になり、よっちゃんは消えていました。
 
次の日の夜。再び私はよっちゃんに起こされました。
前日と同じように、私の身体は自由を奪われ、よっちゃんは私の上をくるくると回っていました。
やがて、よっちゃんは玄関の方に消えて行き、私の身体は自由を取り戻しました。
時計を見ると、前日によっちゃんが現れた時と同じ、午前0時だったのです。
 
次の休日、私は雛人形を持って、山梨にあるよっちゃんのお墓を訪れました。
「よっちゃん、ごめんね。折角来てくれたのに。今日は雛人形を持ってきたからね・・・。」
よっちゃんの好きだった飲み物を供えて、私はお墓を後にしました。
その後、よっちゃんは私の前には現れません。たまには来てくれればいいのに・・・。
 
季節外れの、招き猫の”本当にあった怖い話”でした。

連休でした。

この連休を利用して
カミさんの田舎(栃木)に行ってまいりました。
美しい自然とおいしい空気を堪能してまいりました。
排気ガスで汚れた夜空では無い
本物の夜空に浮かぶ中秋の名月。
もう、最高でしたよ!。
 
淡水魚の水族館に立ち寄り
巨大なピラルクーやシルバーアロワナに遭遇。
熱帯魚好きの私には
堪えられない喜び・・・。
水遊びをする息子の満面の笑顔
 
お墓参りを済ませ
楽しい休日が終わる
渋滞の東北道を抜け
先ほど無事帰宅する事が出来ました。
 
更新を楽しみにしていただいている皆様
留守中にコメントを頂いた皆様
対応が遅れてしまい
申し訳ありませんでした。
 
m(_ _;;m

招き猫のダイエット作戦

今年の春頃、ちょっとした事で医者にかかりました。
(最近このネタばっかり・・・すいませんねぇ。)
血液検査という事で、腫瘍マーカーも含め、その他いろいろ観て頂きました。
結果。
 
先「うん、ぜんぜんOKなんだけど、ひとつだけ・・・。」
 
招「はいなんでしょうか。」
 
先「太りすぎですねぇ、中性脂肪が高いですねぇ。このままじゃ脂肪肝になっちゃうよ。」
 
招「え?フォアグラなんか食べてないですよ。」
 
先「そんなもの食べなくても脂肪肝になるの!ダイエットしてみたら?。」
 
招「・・・・・・・・・・・・・・・・・。はぁ。」
 
さすがの私です。
脂肪肝→肝臓癌→抗癌剤→げろげろ(参照・闘病記)
といった図式が頭の中で、即座に完成しました。
と言うわけで、以前のような”柴田恭兵”のようなルックスを目指して、ダイエット作戦開始!。
目標はズバリ、アンガールズ!。
そして、掲げたテーマは、
 
食生活を変えよう!。
 
 という事ではじめてみました。
今までの私の食生活は、少ないおかずで、なるべくたくさんの炭水化物(米)を食べると言う(江戸時代庶民のような)食事方法を好んでおりました。
カミさんの「あんた、最悪」という言葉を素直に受け入れ、コックをやっていた頃の知識もフル活用し、私なりのダイエット・メニューを考案いたしました!。
名付けて、
 
ミネストローネスープ・ダイエット!どんどんパフパフ!
 
解説しましょう。
ミネストローネ・スープはご存知でしょうか?。イタリアの”食べるスープ”という感じの具沢山のおいしいメニューです。
たくさんの野菜とマカロニを、トマトベースのスープでじっくり煮込んで、チーズをかけていただくと言う物。なかなか美味しそうでしょ?。
たくさんの野菜をトマトベースで煮込むという事で、品目数も稼げるし、ビタミンもOKでしょう。
炭水化物はマカロニですが、これは低インシュリン食品ですので、米をがんがん食べてしまうより遥かに効果的です。
たんぱく質は、上にトッピングするチーズで補えます。これは、味についても重要で、味に奥行きが出ますしトロッとトロける食感も楽しめます。
 
それでは、私の”手を抜いても美味しいミネストローネ・スープ”の作り方です。
品目量などは、男の料理なので、全て目分量でございます。てきとーに美味しくなるように作ってね。
 
まず、大きなお鍋半分くらいに水を張り、火にかけます。
キャベツ、じゃがいも、玉ねぎ、にんじん、しめじ等、その他お好みの野菜を1Cm角に切ります。
トマトベースのスープなので、酸味が出やすいです。玉ねぎの甘味は酸味を消しますので、玉ねぎを多く入れると美味しいかもです。
ベーコンを野菜と同じ大きさに切り、フライパンでオリーブオイルで炒めます。
ベーコンの香りが出たら、野菜も一緒に炒め塩・コショウで味を調えます。
お鍋のお湯が沸いたら、固形のチキンブイヨンを入れて塩・コショウをします。
ブイヨンに炒めた野菜をドバッと入れて、ひと煮立ちさせ、アクを取りましょう。
缶詰のホールトマトを少し細かく砕いて、鍋に入れましょう。
オレガノとケチャップを入れて、味を見ます。
その後は、アクを取りながらコトコト・・・。1時間ほどでベースのスープが完成です。
食べる時に食べる人数分小鍋に取り、茹でたマカロニを入れて火にかけ、盛り付けたらピザ用のチーズを載せて召し上がってください。
その他、マカロニの代わりにご飯を入れてリゾット風にしたり、冷たく冷やして、冷たいスパゲティーかけて、冷製スパゲティーも美味しいです。
2,3日たつと、煮詰まってトマトソースのようになりますので、シーフードを加えて、フェットチーネにかければペスカトーレ風にもなります。
 
このようにアレンジしたものを、毎日1食、出来れば2食たべました。
最初はちょっと物足りなかったのですが、段々これで満足するようになりました。
 
そして、半年のダイエットの成果は、マイナス12キロと言った所です。
リバウンドどころか、今でも少しづつ減っております。
勿論、ウォーキングを中心とした運動も心がけています。
高価なダイエット器具を買わなくても、食生活を変えるだけでこんなにも効果があるんですね。
そんなにお金は掛かりませんので、気にされている方はお試しください。
 
以上、招き猫のダイエット・レポートでした。
 
 
 
 

お詫びと感謝とご挨拶

え~、非常に長々と、自己満足的な闘病記を載せてしまいました
 
本来の、私の仕事での記事を楽しみにしてくださっている皆様
 
誠にに申し訳ございませんでした
 
また、私の拙い文章と表現力による
 
闘病記を読んでくださった皆様
 
本当にどうも有難うございました
 
これより、通常の記事に戻らせていただきます
 
幸い、長い事闘病記をやってまいりましたので
 
ネタ不足も解消しつつあります
 
それでは早速、最新のトラブルノートでお楽しみください
 
これからも「盗聴バスターズの眠れない夜」をどうぞよろしくお願いいたします。
 
 luckycats/招き猫
 
 
 
 
 

闘病生活・番外編~Another Story ~

入院中、ひとりのおっさんと友達になった。
30になったばかりの私は、9時消灯、6時起床という入院生活では、退屈な夜を過ごす事が多かった。
抗がん剤投与後、体力が回復した私は、カミさんが差し入れてくれたインスタントコーヒーを淹れて、見舞い客用の待合室で一人で読書などをして夜を過ごした。
私が一人の夜を満喫していると、よくおっさんが邪魔をしに来た。
 
「若旦那!寝むれんのか?」
「やあ、おっさんもでしょう?」
「おうよ。こんなに早く眠れるかってんだよな~。早く家にかえりてーなあ。」
「もうすぐでしょ。ひっくりかえって待ってりゃあ帰れるって。」
「旦那はいいぜ、俺ぁ老い先短けーからよ。」
「またまた、何言ってんの!。」
 
旦那、おっさん、と呼び合う仲だった。
おっさんは「帰りたい」と口癖のように言っていた。
実際、私より数ヶ月入院生活が長かったから、帰る順番はおっさんの方が先だろうと、私は思っていた。
おっさんは自分の病名を「胃潰瘍」と名乗っていた。
「胃をほとんど取られちゃったからよ、メシ食えねーんだよ。まいったよ。」
私はおっさんが少し痩せているのが気になっていた。
 
おっさんは大部屋にいた。同室の患者さんともおっさんは楽しそうに話をしていた。
入院中は病衣姿だったが、私服ならばダンディーなおっさんなのだろうな、と私は思った。
確かにおっさんと話していると、私も楽しかった。
野球、仕事、政治、金、女、人生の先輩として、おっさんが話してくれる事は、どれも的を得ている事ばかりだった。
 
ある夜、やはり私が夜の読書を楽しんでいると、いつものようにおっさんが訪れた。
しかし、おっさんの姿を見て私はギョッとなった。
おっさんは病衣をまくり、その腹を私に見せた。
 
「旦那、見てくれよこの腹。」
「おっさん、どーしたんよ!その腹・・・。」
「腹水だってさ。コイツが鬱陶しくてねむれねーんだよ。明日抜いて貰う事になってるんだけどな。」
「こんな所をうろちょろしていていーのかよ。」
「大部屋、暑くてよ。ここは涼しくていいなぁ。ここで寝ようかな。」
「風邪ひくって。」
「帰りてーな。早くよお・・・。」
「ハハハ、そればっかやん。」
 
翌日、おっさんは私の隣の個室に移された。
個室に移ったおっさんは、以前より出歩かなくなった。
そのお陰で、私は一人で過ごす夜が多くなった。
 
ある日、おっさんの部屋の扉が空いていた。
看護師さんが、なにやら処置をしていた。
少し離れて部屋を覗くと、おっさんは横になってこっちを見ていた。私は軽く目配せをした。
確かに目が合ったはずなのだが、おっさんは私の目配せに反応してくれなかった。
おっさんは無表情な顔で、目はうつろに開いていた。
 
その日の夜、いや、翌日の朝方だったろうか。
ふと目覚めると、おっさんの部屋でなにやら忙しく看護師さんが処置をする音が聞こえた。
担当医も来ているようだった。慌しい足音と、小声で指示をする担当医の声が聞こえた。
 
夜が明けると、おっさんの部屋の名札は、外されていた。
部屋は何もなかったかのように、新しいベッドにシーツがたたんで置かれていた。
明るく、穏やかな病室がそこにあるだけだった。
 
私が思っていたように、おっさんは私より先に、病院から出て行った。
私が思っていたのとは、違う形で・・・。
帰りたいと口癖のように言っていたおっさんは、とうとう家に帰る事は出来なかった。
今となっては、おっさんの名前や、どこのどういう人なのか、知る術もない。
只、おっさんの人生で、私が最後の友達になった事は、紛れもない事実である。
 
 
おっさん、そっちでは楽しくやっているかい?
少し年を食っちまったけど、俺はいつまでもおっさんの友達だからさ!。
 
 
 招き猫の闘病生活・・・完
 
 
 
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招き猫の闘病生活・後編

翌朝、招き猫は目覚めました。良かった、生きてた、死ぬかと思った。
私、どんな格好をしているのかなぁ。
いろいろ確認してみたりする。
”お○んちん”の先っちょに管が付いている。手術の傷は下腹部のようだ。腕にはまだ、点滴のチューブがはいっていた。そこで決心する。恐る恐る通常は在るべきモノの部分を触ってみる。
 
無い。
わかっていたはずなのに、現実を目の当たりにしたショック。
「もう、ヤツとは二度と会えないんだな。そう言えばさよならも言えなかった。」
等と、なんとなく少しセンチメンタルな事を考えてしまいました。
その日のお昼から、食事が出るようになりました。もう腹ヘリコプターです。
翌日から、歩けるようなら歩いていいという許可が出ました。でもまだ傷が痛みました。
ちょうど袋の下あたりに、ドレンという管が入っていました。中の余分な白血球を外に出す役割のものです。その、ドレンの先の白血球が染みたガーゼの交換と、手術の傷の消毒が、手術後の私の毎日の日課となりました。
当然、その処置は看護師さんがやるわけです。
そう、苦労して自分で剃毛した割に、私の重要な部分は毎日、日替わりで担当の看護師さんの目の当たりにされてしまう運命となってしまったわけです。
ところがこの処置。最初のうちこそ、こっぱずかしいのですが、慣れと言うのは恐ろしいものです。数日たつと、「おねがいしま~す」ってなもんです。
ガーゼが汚れて気持ち悪くなると、こちらから看護師さんを呼んだりします。「ま~だ~?」とか言って。
人間の順応性って恐ろしい・・・。
 
術後、はじめて家族を交えて先生との話合いが行われました。ムンテラと言うんだそうです。
「摘出した患部の病理検査を、群馬大学に依頼しました。その結果で今後の治療を決定しましょう。良性の腫瘍だった場合は、治療の必要はありません。そのまま退院していただきます。悪性だった場合は、化学療法という治療を行います。はっきり申し上げると、抗がん剤を投与します。化学療法の治療期間は3ヶ月を予定しています。」
「・・・先生の仰るとおりにいたします。」
もう、これしか言えません。
「先生、悪性という結果になる確率は、どの位なのでしょうか?。」
「まあ、私が見た所、ほぼ悪性といっていいでしょう。でもね、招き猫君はラッキーだったんだよ。この病気の発症率は、10万人に一人位なんだけど、ほとんどの場合痛みが出ないんだ。痛みが出たから診察に来たんだろう?。手遅れになると、肺やリンパ節に転移する可能性が高いんだ。君は本当に運がいいんだよ。」
 
ムンテラが終わり、カミさんと話しをしました。
「俺、運がいいんだってさ。そんで10万人に一人だって。年末ジャンボ手術だったんだ。」
「フフフ、宝くじ買おうか。」
「お前さ、俺がいない時に先生になんか言われてない?」
「何を言われるのさ。」
「いや、本人には言わないけど、死ぬかもとか、助からないとか・・・。」
「大丈夫だよ。あの先生は何も隠していないよ。ほんとだよ。」
「そーか。・・・約束しねーか?この先、もしも先生にそういう事言われたら、俺に言うって。俺さ・・・どうせなら戦って死にたいから。」
「わかった。約束。」
シロートの浅はかさですが、私はこの時、本当に死ぬ事を考えました。
 
3週間後、術後の経過も良く、ほとんど普通の生活が出来るようになりました。そしてようやく病理検査の結果が出ました。再びムンテラが開かれたのです。
「病理検査の結果が出ました。病名は、ノンセミノーマ、悪性でした。化学療法の内容を説明します。3種類の抗がん剤を5日間、点滴によって投与します。その後3週間の体力の回復を待ちます。これを1クールとし、合計3クール行います。この化学療法では副作用が発生します。髪の毛が抜け落ちる事、白血球値が下がる事、食欲が落ち吐き気をもよおす事です。つらい治療になりますが、招き猫君、がんばりましょう。治療は3日後から開始します。2日間の仮退院を許可します。お家でゆっくりしてきてください。」
今は治療の事は考えず、例え一時的にでも家に帰れる喜びを噛み締めよう。
 
仮退院の2日間は何をするとも無く、ごろごろしたり、家の中をうろちょろしたり、ネコの毛をむっしったりしていましたが、唯一治療の為にした事と言えば、スキンヘッドにした事です。
副作用で髪が抜け落ちると宣告されていたので、ここは潔く治療を真剣に捉えている所を、先生に見て頂きたいという意味も含めて、頭を丸めました。
 
あっと言う間の仮退院も終わり、再び病院に戻った私には、大部屋ではなく個室が与えられていました。治療中は白血球値が異常に下がるという事で、その間風邪などをひいてしまうと、取り返しの付かない事になってしまうからです。
ところが、この個室。なかなか快適でして、大きな窓は、全部自分のもの。空調も大部屋では自由にならなかったのですが、個室ではすき放題です。
大抵、病院の空調は温度が高めなので、空調を好きにいじれるのは本当にありがたかったです。
 
さて、いよいよ化学療法がはじまります。
点滴をするために、血管に針を入れます。ところが!私は血管が見つけずらい体質だったようです。
看護師さんたちのわたしの評価は、
 
難易度A!
だったようです。看護師の皆さんさん、申し訳m(- -)m。
 
そしてその点滴から、抗がん剤の投与がはじまります。
入れ始めた時は、まぁ、なんてことは無いのですが、1時間、2時間もたつと胸がむかむかしてまいります。3時間も経つ頃は、恐ろしいほどの吐き気に襲われます。
乗り物酔いをした事がある方はわかると思います。あれの強烈なのが24時間体制で、1週間ほど続くのです。
出産経験のある方、まさにつわりのヒドイやつとお考えください。
食事は勿論、水さえも口にするのが嫌になります。食べ物の匂いを嗅いだり、ひどい時は想像するだけで、”うっ”となってしまうのです。
吐き気と共に強烈な倦怠感が、私を襲います。ベッドで横になって息をするのがやっと。とても体を動かす気にはなりません。体を動かす事が出来れば、気を紛らす事も出来、吐き気と戦う上で大きな武器となります。しかし、そういった事も抗がん剤は許してくれません。
ただぐったりしながら、ひたすら襲ってくる吐き気と戦うのです。
抗がん剤は1クールで5日間投与されます。投与後、2日間はこの吐き気、食欲不振、倦怠感に24時間体制で悩まされます。
抗がん剤投与後、吐き気など、私自身が感じられる副作用の他に、白血球値が下がるという副作用が出ます。健康な人で8000という値が出るのですが、私はそれが一番ひどい時には1/10程になりました。普通の人ならば何てこと無いただの風邪でも、抵抗力を失った私の体は、命を落しかねない状況になってしまうのです。
 
この時、初めて個室に移る事を許された意味と、2度目のムンテラで先生の言った「招き猫君、がんばりましょう」という言葉の意味を理解しました。
この治療を、私は3ヶ月間耐えたのです。
確かに私は生還することが出来ました。
しかし、招き猫は頑張った!という事を伝えたいのでは無いんです。
私よりも、もっともっと頑張った人がいます。
それは、私の入院中に1日も欠かさずに私の病室を訪れ、私のいない間大切な我が家を一人で守ってくれたカミさんです。
あれから6年以上もの月日が流れました。あの時のカミさんへの感謝の気持ちを忘れないように、この記事を書こうと思いました。
ここに訪れ、記事を読んで下さった皆様。
病気は私たちの都合など全く無関係に、ある日突然にやってきます。どうかお体にお気を付けください。月並みな言葉ですが、気を付け様も無い事もあるとは思いますが、それでもあえて言わせてください。どうか、お体にお気を付けください。あなた自身のために、そしてあなたの大切な人のために。
 
そして、現在闘病中の方、リハビリなどに励んでいらっしゃる方。
闘病生活を少しふざけた形で書いてしまった事、不快に思われた事でしょう。
本当に申し訳ございません。
闘病中、リハビリ中の皆様に、1日でも、1秒でも早く、元の健康なお体が戻ることを、心からお祈りいたします。
 
長い長い独り言に付き合っていただき、本当にどうも有難うございました!。